「第一回自動車レース」で優勝した「ウチヤマ号」
日本で初めて行われた本格的な自動車レースは、およそ90年前の1922年、東京都洲崎の埋立地で開催された「第一回自動車レース」です。
この自動車レースは、「日本自動車倶楽部」が当時の報知新聞の資金援助を受けて開催されたものです。
ほとんどの出場車両が外国車でしたが、日本自動車業界の草創期に大きな役割を果たした「内山駒之助」が自作のマシン「ウチヤマ号」で参加、見事優勝を飾っています。
内山駒之助は、銀座に本社を置く自転車屋「双輪社」の自動車修理工です。ウラジオストックでの自動車修理の経験を買われ、新たに設立された「双輪社」の自動車部門を任されていました。
吉田はこれ以前にも、外国製のエンジンを使った「吉田式自動車」や、有栖川家に依頼されて純国産のガソリン車を製造しています。
自動車好きの若者が作った「オートモ号」
それから3年後の1925年、同じ洲崎で行われた自動車レースで、日本車の「オートモ号」が並み居る外国車勢を抑え、予選1位、決勝2位の好成績を収めています。
ちなみにこの時優勝を飾ったのは、アート商会が製作した「カーチス号」です。助手席には当時無名の若者であった「本田宗一郎」が座っていました。
この「オートモ号」は、豊川順彌が開発した自動車です。豊川は幼いころから機械好きで、工場や造船所を見て歩くのがなによりの楽しみだったそうです。
1915年、豊川はアメリカ留学の機械に恵まれ、この時触れたアメリカ自動車の影響で、その後、自動車製造を目指す事になります。
1921年、豊川は2台のテスト車両を開発します。1台は水冷エンジンを積み、もう一台には空冷エンジンが搭載されていました。豊川は小型車両に向いているのは「空冷エンジン」しかないと考え、開発のリソースを全てこの空冷エンジンに集中していきます。
1924年、豊川はこの空冷エンジンの試作車に乗って、東京ー大阪間を見事40時間で走り抜けることに成功します。この時からこの試作車には「オートモ号」という正式名称が与えられる事になります。名前の由来は豊川の先祖「大伴」と、「オートモビル」をかけ合わせて作った造語です。
純国産マシン「オオタ号」
さらにそれから11年後の1936年、東京の多摩川にあるサーキット場で自動車レースが開催され、日本車の「オオタ号」が、小型車部門で堂々の1位を獲得しています。
この「オオタ号」は、エンジンからシャーシまですべて国産のオリジナル部品で仕上げられ、日本の自動車業界にとって大きな歴史的意味を持つ純国産マシンでした。
自動車修理販売業を営む「太田裕雄」が設計し、息子の裕一がボディスタイリングを担当。この息子によるスタイリッシュな外観が受け、大きな販売成果をあげています。