1963年、日本初の本格的サーキットとして「鈴鹿サーキット」がオープンすると、日本中に次々と新しいサーキットが作られていきました。
同時に日本中でこれらのサーキットを使ったレースが活発に行われるようになり、日本は一大レースブームを迎えます。
レースマシンを供給する自動車メーカーも積極的にこの流れに乗り、数々のレーシングカーを生み出しています。その中でも、トヨタと日産の活動は互いをライバルとして意識した熱い開発競争を繰り広げていました。
ところが、この流れを一転させる世界規模での大きな出来事が起きてしまいます。1970年代前半に勃発した「第一次オイルショック」です。
オイルショックによりレース活動を縮小・休止
1973年に勃発した「第四次中東戦争」により原油の世界的供給が逼迫、原油価格の高騰により、ガソリン価格も大きく上昇します。
このオイルショックによって、大きな影響を受けたのが自動車会社です。売上の減少を補うため、モータースポーツ部門に対する予算が削減される事になります。
当然ながら日本国内で行われていたレース活動も、縮小および休止を余儀なくされます。
レース活動の予算削減により、幻と消えたモンスターマシンたち
このレース活動の縮小・休止の中で、いくつかのモンスターマシンが、日の目を見ることなくひっそりとその姿を消しています。
中でも特にファンの間で惜しまれつつ消えていったモンスターマシンは、「ニッサンR383」と「トヨタ・7」です。
トヨタの「トヨタ・7」は、グループ7の車両規格に対応した、オープン2シーターのスポーツカーです。4986ccのV型8気筒DOHCターボエンジンを搭載し、最大出力800ps/8000rpm、最大トルク74.0kgm/7600rpmを発揮していました。
国内レース不参加表明後も、アメリカのCan-Am参戦を目指して開発が続けられていましたが、鈴鹿サーキットでのテスト中にドライバーの一人を失い、Can-Amへの参戦を断念する事になります。
ニッサンR383
対する日産の「ニッサンR383」は、名車「ニッサンR382」の後継車として設計開発されたモンスターマシンです。
5954ccのV型12気筒DOHCツインターボエンジンを搭載し、出力は900ps、最大トルクは66.0kg以上を発揮していたと伝えられています。
トヨタと同様、国内レース不参加表明後も、アメリカCan-Am参戦を目指して開発が続けられていましたが、トヨタの不参加を受けて日産も参戦を辞退することになります。
ついにサーキットを激走する幻のモンスターマシン
当初の目的を失った「ニッサンR383」ですが、その後も大切に保管され続け、1976年に報道陣に公開された後、翌1977年には東京モーターショーで参考出品として一般客にも公開されています。
その後も大切に保管され続けますが、実際に人前でサーキットを走ることはありませんでした。しかし2006年、富士スピードウェイで行われた「ニスモフェスティバル」において、フルレストアされた「ニッサンR383」がついにサーキットを爆走しその勇姿を白日のもとにさらしています。
空力を考慮された滑らかな「ニッサンR383」のボディは、ブルーメタリックとシルバーのツートンカラーにカラーリングされていました。