日本人で初めて本格的に世界参戦を果たしたレーサー「生沢徹」【モータースポーツ】

自動車レース
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日本人が初めて参戦した世界グランプリ

日本人が初めて世界的なレースに参加したのは、1962年のマカオグランプリです。

マカオには本格的なサーキット場がありませんので、市街地を一時的に閉鎖して開催され市街地レースが一般的です。

この時、三菱自動車のファクトリーチームが「三菱500スーパーデラックス」を3台持ち込んで参戦し、フィアットが保持していたコースレコードを破ってみごとクラス優勝を果たしています。

このグランプリに参加した車は21台でしたが、ゴールしたのはそのうち13台だけという過酷なレースでもありました。

このマカオグランプリには、翌1963年に日本人の発生川忠成も「トライアンフTR4」で参戦し、総合9位の好成績をおさめています。

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プライベーターの星、「生沢徹」

ただ、このような日本人チームや個人の参戦は、あくまでもスポット的なものに限定されており、本格的な世界参戦とは程遠いものです。

そのため、日本人で初めて本格的に世界参戦を果たしたレーシングドライバーといえば、ある程度の期間、拠点をヨーロッパに置いて活躍した「生沢徹」をおいて他にありません。

この生沢徹は、当初オートバイレーサーとしてレーサーのキャリアを出発していますが、大学進学とともにカーレースに転向、当時のプリンス自動車とワークス契約を結んで1963年に「第一回日本グランプリ」に出場しています。その後も、国内の自動車レースで華々しい活躍を遂げています。

この後、1966年にイギリスに渡った生沢徹は、イギリスのF3レースにプライベーターとして参加すると世界的レーサーとして頭角を表し始めます。

1967年第四回日本グランプリでは、ポルシェ906で参戦、日産のワークスチームを死闘のすえ打ち破るという快挙を成し遂げています。

この活躍により生沢徹は、大きなワークスチームを向こうに勝利をおさめた若き英雄としてその名を日本中に轟かせることになります。

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F1に参戦する夢は叶わずも、次代に繋げる

F3、F2レーサーとして世界的に活躍した生沢徹ですが、ついにF1に参戦することはありませんでした。しかし、中嶋悟などその後の日本レース界を背負って立つスターF1ドライバーの育成にも一部力を貸し、日本人初のF1レーサー誕生にあたってその土台を築いたともいわれています。

レース活動引退後

レース活動引退後もレースとの関わりは切れず、レーシングチーム「i&iデベロップメント」を設立、F3、F2を通して広く活躍することになります。

また、学生時代にデザインを学んだこともあり、グラフィックやファッションデザインの仕事をこなす事もありました。その中でも「曙ブレーキ工業」のシンボルマークは特に有名です。

現役時代、チームオーナー、監督時代とプライベートチームとして活動していたため、常に資金難の苦労が絶えなかったのもこの生沢徹の特徴です。

そのため、現役時代は日本国内のイベントで賞金を稼ぎ、その資金を使ってヨーロッパ参戦を維持していたというエピソードが残ります。

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クルマ好きの40代男性。現在病気のため療養中です。

ブログは暇つぶし&リハビリ。週2で短時間のアルバイトをしていますが、普通の人のように毎日フルタイムで働くことはできません。

ブログの内容はあくまで秋ろーの個人的見解です。実際に車や商品、サービスを購入する際は、自分で試乗や調査をして確かめることをオススメします。

記事更新の時間は、大体、午後11時から12時頃にかけてを予定しています。

修正ばっかりしてると新記事の投稿ができないんで、新記事3に対して修正1くらいの割合でやってます(2019年6月〜)