1989年、どんどん膨らみ続けるバブル景気により、日本の下着メーカー「ワコール」がなんと本格的なスーパーカーを開発しています。
その名も「ジオット・キャスピタ」という、現在のマクラーレンF1のようなシルエットを持ったスポーツカーでした。
当初、生産母体となる「ジオット社」の出資はワコールが行い、スポーツカー自体の設計開発は、レーシングコンストラクターの童夢が行うという計画で、エンジン供給については自動車メーカーの富士重工業が担当する予定でした。
このスーパーカーは、市販モデルに少し手を加えるだけでレースに参加できるというのが売りで、開発技術者たちは「日本のポルシェを作る」という目的を掲げ、一致団結して開発に取り組んでいました。
※写真はスーパーカーのおもちゃです。ジオット・キャスピタとは何の関係もありません。
ワコールがスポーツカーを開発しようとした理由
畑違いの下着メーカーがなぜスポーツカーの製造販売に乗り出したのかといえば、当時絶大な人気を誇っていたF1に参戦することで、多大な広告効果を得ようとしていたというのがその理由です。
そうやら、当時のワコールは女性向け下着だけではなく、男性向け下着にもそのシェアを拡大しようとしていたようですね。
スポーツカー開発の発端
このスポーツカーの開発に至る経緯は、1986年当時、銀座で偶然一緒に飲んでいた、童夢の林社長、ワコールの塚本社長、スバルラリーチームの高岡監督が意気投合したことに始まります。
こんな酒の席だけで簡単に大金の動く企画が通ってしまうとは、今では考えられない豪快な話です。
試作1号車の完成
その後この企画はトントン拍子に話が進み、1988年には「ワコール・スポーツカープロジェクト」という正式な社内事業として動き出し、1989年には試作1号車を完成させています。
エンジン開発を担当するスバルは、イタリアのモトーリ・モデルニと共同開発した3.5リッター水平対向12気筒エンジンを搭載し、1989年からF1に一早く参戦しますが、一度も予選通過することができずに半年で撤退することになります。同時にキャスピタプロジェクトからも身を引くことになり、ジオット社は新たなエンジン供給元を探す必要に迫れられます。
試作2号車の完成と共にバブル終焉
ジオット社が次に見つけたエンジンは、イギリスのF1エンジンコンストラクター、エンジン・ディベロップメント社製のV10エンジンです。
当初、水平対向エンジンに合わせて設計されていたボディ構造を大幅に見直すことになりますが、なんとか1992年、試作2号車の完成にこぎつけます。
ただ、1992年といえばちょうどバブル経済が崩壊し始めた頃です。世界中を探してもこんな無名メーカーのスポーツカーを、大金を出して買ってくれるような市場はどこにもありません。あえなく「日本のポルシェを作る」という壮大な夢は消え去ってしまったのです。