秋ろーの独断と偏見で、今回はラリー史に名を残す4人の名ドライバーをご紹介したいと思います。
トミ・マキネン
フィンランド出身のラリードライバー。駆け出しの頃はチームやマシンに恵まれず不遇の時代を過ごしています。
1994年より三菱ラリーアートに所属し、電子式アクティブデフを搭載したランサーエボリューションを与えられた頃から本来の能力に開花、勝負強さを見せるようになります。
その後アクティブデフとマシンの改良も徐々に進み、1996年には初めてWRCのドライバーズタイトルを獲得しています。
ライバルのスバル、トヨタ、フォードが新しいWR規定によるWRカーを投入するも、三菱ラリーアートとマキネンはグループAマシンのまま走り続け、それから4年連続チャンピオンタイトル獲得という偉業を成し遂げることになります。
その後の三菱ラリーアートチームとマキネンはWRカーに準じた改造や、新しいWRカーの投入を行うものの、すでに熟成されているライバルチームのWRカーには歯が立たず、芳しい成績を残すことはできませんでした。
2002年にはスバルに移籍し当初は一度の優勝を経験するもその後は徐々に低迷し、次第にチームの若手を育成する役割を担うようになります。
現役引退後もスバルとの関係は続いており、スバル製グループNカーの輸入販売などを行っています。また現在は、2017年にラリーに復帰する事が決まったトヨタのラリーチーム代表も務めています。
コリン・マクレー
スコットランド出身のラリードライバー。1995年にはWRCのドライバーズチャンピオンを獲得しています。
1986年からラリーに参加し、1991年にはスバル・プロドライブに才能を見出されチームに加入しています。1993年にはニュージーランドラリーで初めての優勝をスバルにもたらし、1995年には自身のドライバーズタイトルと、スバルのマニュファクチャラータイトル獲得にも貢献しています。以降1996年には3勝、翌1997年には5勝を挙げスバルに3期連続のマニュファクチャラーズタイトルを献上しています。
その後はフォード、シトロエン、日産(ダカールラリー)、シュコダ(ラリーオーストラリアにスポット参戦)、シトロエン(トルコラリーに代理参戦)と移籍するも芳しい成績は上げられませんでした。
2007年には自家用ヘリコプターの墜落により事故死を遂げています(享年39歳)。
カルロス・サインツ
カルロス・サインツはWRCラリードライバーの中では珍しいスペイン生まれです。
1987年には始めてのワークスチームであるフォードに加入し、当初より目覚ましい活躍を見せます。その後、ランチア、トヨタ、ランチア、スバル、フォード、トヨタ、フォードと渡り歩き最後にはシトロエンのハンドルを握っています。
勝負に対する情熱には人一倍の強さがあり、マシンセッティングにも妥協を許さない潔癖な性格でした。ドライビング自体は荒さのあるダイナミックなものですが、マシンのセッティングがピタリと決まると他を寄せ付けない圧倒的な速さを見せつけました。
ラリードライバーを引退してからは、フォルクスワーゲンのラリーチームにディレクター兼テストドライバーとして深く関わっていましたが、ドライバーとして活動したいサインツとチームの方針と食い違いもあり、その後はプジョーに移籍してドライバーとして一時的に「ダカール・ラリー」に復帰しています。
ユハ・カンクネン
ユハ・カンクネンは、フィンランド生まれのラリードライバーです。ターマック(舗装路)を若干苦手とするも、グラベル(未舗装路)では圧倒的なスピードを誇りました。
1978年よりフォードのワークスチームに参加しフォード・エスコートRSをドライブしています。1983年にはトヨタに移籍し、1985年にはサファリラリーでWRC初優勝を飾っています。トヨタチームに参加することにより、日本メーカーに初のマニュファクチャラータイトルをもたらしています。
その後、1986年にはプジョーに移籍し、パリダカールラリーで総合優勝を飾っています。1990年にはランチアに移籍、その後は再びトヨタのステアリングを握っています。フォード、スバルと順調に勝ち星を挙げるも2000年以降は徐々に衰えチームを離脱しました。その後ヒュンダイに移籍するも芳しい成績を上げることができず、実質的な引退となっています。また、2010年にはフォードでフィンランドラリーに出場、8位の好成績を残しています。